REVIEW
筆録 日常対話 私と同性を愛する母と
"LGBT"や"レズビアン"という概念のない、激しく男尊女卑だった世の中で、愛し合い、生き延びてきた女性たちの姿をとらえた貴重なドキュメンタリー映画『日常対話』。その監督が、映画では描ききれなかったところも含めて、母親を中心とした家族のことを綴った本。なぜ監督が、母親に向けられたであろうホモフォビアを描かなかったのか、わかった気がしました。
"LGBT"や"レズビアン"という概念のない、激しく男尊女卑だった世の中で、愛し合い、生き延びてきた女性たちの姿をとらえた貴重なドキュメンタリー映画『日常対話』。その監督が、映画では描ききれなかったところも含めて、母親を中心とした家族のことを綴った本が、この『筆録 日常対話 私と同性を愛する母と』です。映画では、監督の母親のアヌさんだけでなく、今の恋人や元恋人の女性たちもたくさん登場し、顔出しで語っていて、よくよく考えるとスゴいことだなぁと思うのですが、同時に、そうした恋愛関係にある女性たちに向けられることもあったであろうホモフォビアがほとんど描かれなかったということが不思議でもありました。この本を読んで、それがなぜなのかということがよくわかりました。レビューをお届けします。(文:後藤純一)
私が映画『日常対話』に強く惹かれたのは、"LGBT"という概念以前の、同性愛者の権利もへったくれもないような厳しい時代に、都会へと逃げてきた女性たちが愛し合い、生き抜いてきたという真実の鮮烈なインパクト、そして、そんな彼女たちの溌剌とした明るさや強さでした。顔出しで堂々と、アヌさんとの恋愛のことを映画で語っている女性たちの姿にも感銘を受けました(日本ではご高齢のゲイやレズビアンがカミングアウトして語るということはなかなかないと思います。だからこそ長谷さんのような方のスゴさが際立ちます)。同時に、同性カップルに対して向けられかねない世間の蔑視や侮辱、ホモフォビアがほとんど描かれていないことが印象的であり、不思議でもありました。
台湾の同性愛関連の映画やドラマはかなりたくさん観てきたつもりですが、『日常対話』が映し出した世界は、私の想像の及ばない、知られざる世界であり、衝撃を受けるとともに、この家族のことをもっと知りたいと思いました。映画の監督であり、この本の著者である黃惠偵(ホアン・フイチェン)さんが、小学校も卒業していないのに、どのようにしてこのように知的なパースペクティブを得ることができたのか、ということも知りたいと思いました。
もう一点、台湾の土着的な習俗が描かれていたことにも惹かれました。チェンさんは、小学校に3年しか行くことができず、子どもの頃から母・アヌさんとともに牽亡歌陣(死者の魂を召喚し、苦しみから解放して極楽浄土に導く儀式を行う、台湾土着の葬式陣頭)の仕事をしていて、派手な服を着て踊ったり側転をしたりというパフォーマンスをしていました。日本にはない、独特な文化であり、ものすごいインパクトです。それから、アヌさんの実家である台湾中南部の農村の、昭和の日本と何ら変わらない風景。そんな農村の家父長制的(男尊女卑)で閉塞的な社会のなかで虐げられていた女性たち(アヌさんが、お母さんが自殺するための農薬を隠し持っているのを発見し、川に捨てたというエピソードには、胸が締め付けられる思いでした)。ありふれた日常に潜む闇。人の良さそうな笑顔が強いる地獄。それはどこか「寺山修司的」とも言うべき世界像で、私は青森で過ごした子ども時代の記憶を否応なしに呼び覚まされたのでした(白い服を着た盲目のイタコの老女たちが先祖の霊を「口寄せ」するような土地であり、同じように旧態依然とした男尊女卑な社会でした)
期待通り、『筆録 日常対話』には、映画では描ききれていないことがたくさん書かれていました。私が知りたかった、家族の全容が解明されました。
映画には写真が登場せず、あまりその肖像というかイメージが描かれていなかったチェンさんの父親(アヌさんの夫)の章は、その中心でした。日雇いの仕事で得たお金を全て酒とギャンブルに注ぎ込み、アヌさんが稼いだ生活費すら奪い、暴力を振るう、典型的なクズ。家族に「死んだって誰も泣かない人」と陰で呼ばれていた人。チェンさんは、ただ恨み辛みを書きなぐり、追い詰めてしまうのではなく、落ち着いて、冷静に、彼の立場に立った視点で「逃げ道」を用意している部分もあり、大人だと感じました。
同じように、映画ではあまり登場しなかった妹の惠娟(フイヂュアン)さんの章もありました。チェンさんとは対照的な、愛されキャラ。子どもをたくさん産み育て、生活に追われる毎日ですが、とても充実した暮らしに見えます。幸せそうです。
まるで家族のように、親戚のおばさんのように、小さな姉妹を気にかけ、面倒を見たりしてくれた女性たちのことを綴った章は、とても素晴らしかったです。夫からの暴力から逃れてきた女性たちが駆け込み寺のようにアヌさんを頼ってきました(「子どもの頃、女の人は結婚すると殴られるものだと思っていた私は、自分が女性に生まれたことを心から恨めしく思っていた」というチェンさんの言葉が、胸を刺します)。最底辺を生きる女性たちのシスターフッド。なかにはセックスワーカーの方もいました。アヌさんと仲良くしていて、家に来ていた女性たちは、ただの友達であっても、アヌさんの恋人であっても、みんな子どもたちの面倒を見てくれます。なかにはチェンさんの妹さんのお子さんを預かってくれた方もいました。異性愛とか同性愛とか関係なく(特に気にせず)、しんどい思いをしている女性たちが助け合って、暮らしを支え合い、子どもの面倒も見ていたという真実に、胸を打たれました。
アヌさんの(恋多き人なので)たくさんの「元カノ」たちは、別れてしまうと家には来なくなるわけですが、それでも、「今も元気にしてるの?」と気にかけてくれます。「人として最も成熟した態度だと言えるだろう」とチェンさんは書いています。「縁のあるときは共に寄り添い、縁がなくなった後も、互いに相手の安穏を願うのだ」
本を最後まで読んで、なぜチェンさんが、周囲からアヌさんに向けられたであろうホモフォビアを描かなかったのかがわかった気がしました。この映画が製作されていた時期は、台湾の国会で同性婚法が審議されはじめた時期と重なっており、彼女は同性婚推進団体に呼ばれて講演をしたり(一方で、一般の講演会からは「先進的過ぎる」として出演キャンセルをくらったこともあるそうです)、アライとして活動していた方だからです。
そもそもこの映画が助成金を得て製作が可能になったのも、台湾が国を挙げてジェンダー平等やLGBTQ支援に舵を切り、このような映画の製作も積極的に支援するようになったから、ということがあります。
映画に登場するアヌさんの恋人たちも、同性愛者として登場することで何ら不利益を被らない(差別やバッシングを受けない)くらいにまで台湾の社会が成熟したからこそ、カミングアウトできたのでしょう。
学歴がない(小学校すら出ていない)チェンさんが、どのようにして教養を身につけ、このように知的な、哲学的とも言えるパースペクティブを得て、この見事な映画と原稿に結実したのか、という点も、この本を読んで、納得がいきました。彼女自身の学びたいという真っ直ぐな気持ち、希求する力。それに応えるように、周囲で手を差し伸べてくれたいろんな人たちの善意。彼女が勇気を出して家族についての企画書を上げて、それが採用されて助成金が降りることになり、映画化が実現したというお話も、胸が熱くなります。なんだか『赤毛のアン』を思い起こさせます。
…ここでレビューを終えようと思ったときに、小田急線で「幸せそうな女性」を狙った殺人未遂事件(フェミサイド)が起こりました。本当にショッキングですし、憤りを禁じえません。2021年の現代でも、世間には女性嫌悪(ミソジニー)が蔓延しており、こうして女性を狙ったヘイトクライムとして噴出するということの深刻さ…。その背景というか、おおもとには、東アジア社会の儒教的・家父長制的な家族観・ジェンダー観が間違いなくあると思います。そうした家父長制的な社会の男尊女卑の宿痾が、どれだけ女性を虐げ、損なってきたかということ、それこそがこの『日常対話』のメインテーマです。
ゲイであろうとバイセクシュアル男性であろうとストレート男性であろうと、(戸籍上)男性として生まれ、(制度的に)男性として扱われてきた私たちは、「ただ男性であるというだけで履かせてもらっている下駄(特権)」については無自覚だったりすると思います。女性がいったい世の中でどんな扱いを受けてきたのかということは、女性になってみなければ本当のところはわからないのでしょうが、「女性の靴を履いてみる」こと(ハイヒールを履きましょうという意味ではなく、ブレイディみかこさんが言うところのエンパシー)は可能です。今こそ女性に寄り添い、女性が置かれている社会的状況について真剣に考えてみる時だと思いますが、『日常対話』はその最良のテキストとなりえるということは強調しておきたいと思います。
筆録 日常対話 私と同性を愛する母と
著:黄惠偵/訳:小島あつ子/サウザンブックス社