REVIEW

トランスジェンダーやDSDの人たちの包摂について考えるために今こそ読みたい『スポーツとLGBTQ+』

もともと近代スポーツは男性身体優位であり、女性や同性愛者の参加は実現されてきたものの、トランスジェンダーやDSDの包摂という課題は解決されないままであるということが研究者によって解き明かされている本です。今こそ読むべき時ではないでしょうか

 パリ五輪で生まれつきテストステロンの分泌量が多いDSD(性分化疾患)の選手に対する非難や誹謗中傷が巻き起こっていて、胸を痛めている方も多いと思います。
 2022年に(以前『LGBTIの雇用と労働』という本も出版している)晃洋書房から『スポーツとLGBTQ+』という本が出版されました。研究者の方が書いているのですが、下山田志帆さんや村上愛梨さん、杉山文野さんらOUTアスリートのインタビューも盛り込まれていて、わりと読みやすかったです。
 
 ざっと概要をお伝えすると、近代スポーツは男性のみを前提として成立し(もっと言うと英国のアングロサクソン系の人に適合するようなスポーツ種目が世界に広まり)、そもそも男性が有利になっている、競技を男女に分けて競うことで平等を模索してきたものの、LGBTQは長い間排除されてきた、近年、IOCが性的指向による差別の禁止を謳い、2000年代以降、カムアウトするプロ選手も増えたものの、トランスジェンダーやDSD(性分化疾患)の人たちの包摂という課題は解決されておらず、スポーツそのものが内包する男性身体優位という制約は積み残したままである、という内容です。
 衝撃的なことがいろいろ書かれています。ものすごく考えさせられる本でした。
 
 第1章「男性ジェンダーとスポーツ」では、近代スポーツの成り立ちや、それがいかに「男らしさ」を顕現し、理想化し、異性愛規範を強化し、またホモソーシャルな(同性愛者を排除する)ものであったかということが解説されています。

 第2章「女性ジェンダーとスポーツ」では、19世紀にカレッジなどで女性もスポーツを楽しむようになったものの、競技はテニスなどに限られ、女子ラグビーなどは“品がない”と言われ、中止に追い込まれたということや、1896年の第1回アテネ五輪に女子の参加は認められていなかったということ、1960年代には本当に女性なのかを確認するために選手を全裸にして目視するという非人道的な検査が実施され、これはすぐに取りやめになったものの、代わりに性染色体の検査が実施されるようになり、性染色体等が非定型である女子選手(ごくまれにそういう方もいらっしゃいます)が失格にされた…といった、目眩がするようなお話が書かれていました。
 
 第3章「ゲイとスポーツ」では、ゲイゲームズにまつわる驚くべきエピソードが書かれていました。
 メキシコ五輪(1968)に出場したトム・ワデル博士が1982年、「ゲイ・オリンピック・ゲームズ」を立ち上げたものの、開催の直前にUSOC(米国五輪委員会)が連邦裁に提訴し、オリンピックという名称が不使用にされる(ポスターから何から全てを修正せざるをえなくなった)といういやがらせのような出来事がありました。そもそも古代ギリシアからの長い歴史を持つ「オリンピック」という言葉をなぜ特定の団体が排他的に使用できるのか、「ネズミオリンピック」「カニ料理オリンピック」などは黙認されているのになぜゲイの大会では認められないのか、それはホモフォビアにほかならないのではないかという話なのですが、最終的に連邦最高裁はUSOCの訴えを認め、あまつさえUSOCは裁判の費用をワデル博士から取り立てようとし、あろうことか、エイズで闘病していたワデル博士の自宅を差し押さえたのです(ひどい…)

「こうしたUSOCの行動は、オリンピックという運動の持つ性的なイデオロギーを半ば公的に表明したものだとも言える」


 似たような話は実はパラリンピックにもありました。パラリンピックは1948年、ロンドン五輪に合わせて開始された傷痍軍人チームのアーチェリー大会(ストーク・マンデヴィル大会)が源流になっており、主催したルートヴィヒ・グットマン医師はこれを障害者のためのオリンピックと位置づけ、メディアが徐々にこれを広め、1953年に初めてパラリンピックという名前が使われるようになりました。しかしIOCは何度も、オリンピックを思わせるその名称の使用を止めるようグットマン氏に勧告していました。公式に許可が降りるのは80年代になってからです。

「ゲイゲームズとパラリンピックが辿ったこうした経緯は、近代スポーツの一つの頂点であり権威でもあるオリンピックというものが、何を理想としているか、どのような身体(主体)によるスポーツを理想化しているかを逆照射しているとも言えよう」


 ゲイゲームズの開催や、ギャレス・トーマスのようなゲイのカミングアウトによって、世の中の「男らしさ(マスキュリニティ)」の観念がヘゲモニック(覇権的)なものからインクルーシブ(包摂的)なものへと質的に変化してきているという、ポジティブな記述もありました。
 
 様々な先人たちの努力によって、今では、女性も、障害者も、カムアウトした女性や男性も(OUTアスリートの9割は女性で、男性がまだまだカムアウトできない現状を物語っているとはいえ)オリンピックに包摂されるようになってきました。IOCはトランスジェンダーの包摂にも取り組んできて、東京五輪では史上初めてトランスジェンダーの選手が出場しました(一方、2名のDSDの選手が出場禁止の憂き目にあっています)。IOCは2021年、トランスジェンダー差別はしないと宣言しつつ、その出場資格を各競技を統括する国際的な連盟に委ねる(丸投げする)方針に転換しました(結果的に、今回のパリ五輪はトランスジェンダーのアスリートが事実上「締め出し」にあっていると報じられる状況になっています)
 
 第5章「性の境界とスポーツ」では、「シスジェンダー男性の身体を基準とした性別二元性に基づく近代スポーツの限界を踏まえれば、性の境界をめぐる問題は原理的に解決不可能である」「身体(セックス)重視、男性優位を温存したまま男女カテゴリーを設けることで機会の平等を模索してきたが、(民主主義国家で主流となっている)男女平等、ジェンダー重視の価値観に適応できていない。基準自体を変更せざるをえない」と述べられています。元千葉大学教授の多木浩二氏は「女性参加やジェンダー平等を達成するうえでスポーツは社会文化として欠陥がある」と指摘し、そのオルタナティブとしてダンスを挙げています(昨今の学校の動きを見ても、それは現実のものとなりつつあります)
 もし現行のオリンピックでトランスやDSDの選手を完全に包摂しようとするなら、パラリンピックですでに行なわれているように、身体の能力をより細かく分けたうえでポイント制によって再構成し、競技力の公平さを担保するという方法も考えられる、例えば従来の重量制と同様、テストステロン値ごとのカテゴリーを設けることで問題を解決できる可能性がある、と述べられています。
 
 女性、障害者、同性愛者――マイノリティの包摂は確かに進展してきたものの、まだこぼれ落ちてしまうマイノリティの人たちがいます。華やかな大会の陰で涙を呑む選手、出場しても誹謗中傷にさらされる選手のことを他人事だと突き放すのではなく、どうしたらすべての選手が参加可能な大会が実現するのか、みんなで考えていきたいですね。

 なお、この本の著者の一人である立命館大の岡田桂教授が毎日新聞の「スポーツだけが特別か 性別で奪われる参加機会」という記事に登場し、「スポーツは進学や就職の機会につながり、学歴と並ぶ「文化資本」と見なされている。そこに性別で差があるのは男女平等とは言えず、大きな問題だ。スポーツの限界を理解し、その上で、その価値を相対化、もしくは切り下げることも考える時期に来ている」と語っています。そちらもぜひ読んでみてください。


スポーツとLGBTQ+ シスジェンダー男性優位文化の周縁
著者:岡田桂、山口理恵子、稲葉佳奈子/発行元:晃洋書房

ジョブレインボー
レインボーグッズ