REVIEW

『トランスジェンダーQ&A 素朴な疑問が浮かんだら』

名著『トランスジェンダー入門』を著した高井ゆと里さん&周司あきらさんが、再びわかりやすく画期的な著書を発表したので、ご紹介します

 例えば会社の取締役であったり、取引先のお偉いさんであったり、世の中に流布するデマを鵜呑みにしてトランスジェンダーに関する差別的な見方をしてしまっている方を説得しようと試みたけど、なかなかうまくいかなかった…という経験をお持ちの方、いらっしゃると思います(私もあります)。何度でも、様々な角度から学び、こう言われたらこう返そう、とか、心の準備(理論武装とも言う)をしていくことが大事だと思います。この本はQ&A形式になっていて、まさにそうした場面に活用できるような優れた本です。ぜひお手元に一冊、お持ちいただいて、繰り返し読んでいただければと思います。
 
 第1部「性別の重み」は、私たちの社会がどれだけ性別を重視しているかということを描きながら、そもそも性別とは何なのか?という根元的な問いにも、実にわかりやすく、鮮やかに答えています。人は生まれた時に「男の子?女の子?」と確認され(性別を割り当てられ)、「男らしい/女らしい」服装をしていなければ面接で落とされ、犯罪の容疑者や被害者になればテレビで「男は」「女は」と名指されます。しかし、その人が世間の「男らしさ/女らしさ」の基準から逸脱していたとしても、「男でない/女でない」ことにはなりません。「その性別であること」と「その性別らしくあること」は全く次元が違う話です。髪型や服装、仕草など社会生活を送るうえでの外見(ジェンダー表現)は、世間の性別らしさの規範に規定されていますが、人々がこの規範に沿って「男らしい/女らしい」服装などを再生産し、あたかもそれが所与のものであるかのように振る舞うことで、ますます規範は強化されていきます。一方、生物学的な「性別」は、身体の特徴や染色体などで規定されうるかというと、単一の基準でシンプルに線引きすることはできません。事故や病気で外性器や生殖腺を失う方もいますし、性分化疾患の方たちもいます。にもかかわらず、社会は人を男か女かに分類するのです。人が男であるか女であるかは、その人のアイデンティティにかかわるようなことだというのは確かですが(ジェンダーアイデンティティ)、実は性別を構成する要素は多元的で、「男性であること/女性であること」について誰もが納得するような単純な説明は存在しません。
 昨今取りざたされがちな「性別分けスペース」についても掘り下げられます。トイレなどの性別分けスペースは(戸籍上の性別でも外性器の特徴でもなく)曖昧な尺度で運用されているのが実態ですが、それは、日常生活の中ですでに「生活上の性別」が形成されていて、性別分けスペースはその延長で利用されているに過ぎないからです。「今どんな性別で生活を送っているか」の実態に反して反対側のスペースを使うことはありません。そして、こうした性別分けスペースも含め、世の中は男/女しかいない前提になっており、「男でもなく、女でもない」人はいないことになってしまっています。何かがおかしいと思いませんか?という問いかけで、この章は結ばれます。

 第2部「基礎知識」はトランスジェンダーについての基礎的な事柄が説明されます。トランスの人たちは古来よりずっと世界に存在してきましたが、トランスジェンダーという言葉もジェンダーアイデンティティという言葉も最近のものです。当事者の中にも、その概念がピンときていない人たちもいます。ですから、ジェンダーアイデンティティという言葉を使わずに定義するなら「出生時に割り当てられた性に期待されるありようとは異なる性のありようを生きている人たち」ということになります(「心の性と身体の性が異なる」という説明はかなり不正確であると指摘されています)
 トランス女性、トランス男性だけでなく、ノンバイナリー(Xジェンダー)の方たちもたくさんいます。FtM、MtFという言葉が(一貫して男性だった/女性だったと感じている当事者が「女から男に変わった」「男から女に変わった」というイメージを喚起する言い方を侮蔑的だと感じることもあり)だんだん使われなくなってきているなか、FtX、MtXという言葉も使わないほうがよいと思い、一方で、出生時に割り当てられた性別の違いがノンバイナリーの経験に影響することを説明しようとした場合に、いちいち「出生時に割り当てられた性別が女性/男性のノンバイナリー」と言わずに伝わる言葉として「Assigned Female/Male At Birth(出生時に女性/男性を割り当てられた)」という言葉の頭文字をとった「AFAB」「AMAB」があります(また新しい言葉が…と思われるかもしれませんが、おそらく今後広まっていくと思うので、憶えておいて損はないと思います)
 そのほか、トランスジェンダーと“性同一性障害”の違い(トランスジェンダーは「病気扱いするな!」というメッセージとともに使われてきた歴史があります。なので、トランスジェンダーと“性同一性障害”は水と油のような関係と言われることもあります)、PRIDE JAPANでも繰り返しお伝えしてきた“性同一性障害”概念の「性別違和」「性別不合」への置き換えのこと、“性転換”という言葉は、あるとき一瞬で性別がスイッチするかのような誤ったイメージを喚起することもあり、現在は使われなくなっているということ、「男らしさ/女らしさ」の押し付けへの違和(それはシスジェンダーの方たちも感じることです)と性別違和(その性別で死ぬまで生きなさいという押し付けへの違和)は異なるということ、学校の男子の中で「自分だけがスカートを押し付けられる」ことへの違和感、といったことが説明されます。
 そして、「性別を変える」とはどういうことか、です。性別は(1)書類上の性別、(2)生活上の性別、(3)身体の性的特徴、(4)ジェンダーアイデンティティという4つの水準で捉えられ、運用されています。どの性別を変えるのかによって、やることが違ってきます。書類上の性別を変えることのハードルが非常に高いことはみなさん、ご理解の通りです。手術を受けたら身体の性的特徴が変わって「性別が変わった!」と思える、というイメージは多分に誤解が含まれています。当事者はまず、自分がこれから生きていこうとする性別のほうの服屋で怪しまれることなく買い物できるか、とか、初対面の人に自認する性で認知されるか、とか、オセロの石をひっくり返すように一つ一つ、生活上の性別を変えていきます。当事者はこれを「パスする」と言ったりします。以後、医学的な話や経済的な話、法律の話(「(区切るやり方はいくらでもあるにもかかわらず)お風呂が混乱するから全員陰茎を切れ」なんて、まったく信じがたい要求を特例法は続けてきた。人の身体をなんだと思ってるんだろう」という一文に、深く頷きました)、ノンバイナリーの人たちの性別移行のこと、性別を変えた人たちはもう困ることはないのか?という話、トランスの人たちが受ける差別や貧困の話、SNSでのトランスヘイトの話などが続きます。この部分がこの本の白眉なのではないでしょうか。

 第3部「性別分けスペース」と第4部「『トランス差別はいけないけれど気になる』疑問」は、SNS上でのトランスヘイトを目にして、それがデマだと思いつつも、どこかでその主張にも一理あるのではないかと思ってしまっているような方にぜひ読んでいただきたいパートです。思い込みや誤解を丁寧に解きほぐしてくれています。
 秀逸だと思ったのは、「未来について考えるための4ステップ」として、これは決してトランスジェンダーに限ったことではないのですが、現実を見て、きちんと未来について考えよう、という考え方の道筋をつけているところです。解像度の低い、間違った捉え方をしたまま抽象的な不安を抱えていると、デマを鵜呑みにして差別に走ってしまったりするので、この4ステップを基本的な軸に据えよう、というお話です。「“性別分けスペースは「身体の性別」で分かれている”という発想は、トランスの人たちの生きている現実を覆い隠すとともに、「身体の性別」という言葉で余計なイメージを喚起し、トランスの人たちが本当に求めていることを全然理解していない」のです。
 差別者が故意に用いている「トランスジェンダリズム」という言葉についても丁寧に解説されています。
 東日本大震災以降、クローズアップされているような避難所でのトランスの人たちの排除の問題にも触れられています(「これは命の問題なのです」)
 そして、なぜこのような差別を煽動する人たちがいるのか、という背景にも触れられています。
 
「あとがき」では、「本書が出版されなければならないほどトランスヘイトが跋扈している状態は、異常というほかない。なぜこのようなバックラッシュが生まれているのか、読者にはそのことをまず考えてほしい」と書かれています。



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