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【追悼】90年代からHIV陽性であることをカムアウトして活動してきた偉人、長谷川博史さん
日本HIV陽性者ネットワーク「JaNP+(ジャンププラス)」から、団体の設立者であり現理事の長谷川博史さんが2022年3月7日、亡くなったとのお知らせがありました。享年69歳でした。心よりご冥福をお祈りします。
なお、お通夜と葬儀告別式は行なわれず、近親者の方々の火葬式のみとなるそうです。
「私はワタシ over the rainbow」という映画をご覧になった方は、車椅子に座ったドラァグクイーンとして自作の詩をリーディングしていた長谷川博史(ベアリーヌ・ド・ピンク)さんの姿を憶えていらっしゃることと思います。
長谷川さんはゲイ雑誌『バディ』『G-men』『SM-Z』を創刊した名編集者であり、HIV/エイズのことがまだタブーに等しかった1990年代からHIV陽性であることをカミングアウトし、ゲイ雑誌にHIV/エイズの連載を掲載したり、二丁目などでクラブイベントを開催してコミュニティに大切な情報を届け、二丁目のゲイバーの方たちに働きかけて(コミュニティセンターaktaができる以前に)コンドーム配布のプロジェクトを立ち上げたり、HIV陽性者団体「JaNP+」を立ち上げ、当事者としてアドボカシー(権利擁護)活動や政策提言にも携わり、行政のHIV関連施策の委員も務めるなど、数えきれないくらい様々な活動をしてきたレジェンドです。もし長谷川さんがいなかったら、日本のHIV/エイズ施策はもっと遅れたものになっていただろうと思います。
2005年には、『熊夫人の告白』という素敵な著書を発表しています。
また、友人のパートナーがエイズで亡くなるという出来事に直面し、「自分がやってきたことが身近な人に伝わっていなかった」と大きなショックを受け…葬儀に出かけるときの写真を友人の菊池修さんに撮ってもらい、それが『MONSTER』という写真集に収められています。
2017年の『AERA』誌のLGBT大特集にも出演した長谷川さんは、腎機能が悪化して人工透析を受けることになり、病院を探したものの、HIV陽性であることを理由に30~40軒から断られ、死を覚悟…やっと決まった病院で透析を受けに行く予定だった日、内出血で倒れて意識を失い、病院の方が心配して大家さんに連絡し、倒れているところを発見され、一命を取りとめたものの、壊疽の進んだ右足を切断…そして車椅子生活へ、というお話を語っていました。長谷川さんは自分のことを「しくじり先生」だと言い、「僕の失敗を見て学んでほしい。でも、同時に、しくじっても大丈夫だということを伝えなければ」と語っていました。思わず目頭が熱くなる記事でした。
著書『熊夫人の告白』やヨミドクターのロングインタビュー、「出張!akta Talk Show ヒューマン・ライブラリー 長谷川博史さんが語る「HIVとゲイコミュニティ」」をご覧いただけると、長谷川さんのライフヒストリーが生き生きと伝わってきます。
少し個人的な思いを書かせていただきます。
私が長谷川さんを初めて見たのは、1997年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭でした。私はHIV関連の短編集の字幕をボランティアでやっていたのですが、トークゲストで登場した長谷川さんが「今日の映画は最低です」と言い始め、「なんだこのオヤジ。失礼な!」と憤りを覚えたのですが、続けて「なぜなら、エイズは死に至る病だという前提だからです」と言って、今はカクテル療法が登場したおかげでHIV陽性者が生き永らえることができるようになった、というお話を始め、会場中の観客を惹きつけていました。とても衝撃を受けましたし、そういうことを知らなかった自分を恥ずかしく思いました。その後すぐに、長谷川さんと近しくなり、以来、長谷川さんが主催するクラブイベントに出たり、たくさんのことを教わりました。
最後にお会いしたのがいつだったかはっきりとは憶えていないのですが、「頑張ってるね」と声をかけてくださいました。ちゃんと私の書いた記事を読んでくださっていたこと、とてもうれしかったです。
コロナ禍の間、たぶんほとんど外出もせず、寂しく過ごしていらっしゃったのでは…と想像し、心が苦しくなります。
3月7日の夜は、本当にたくさんの方がSNSで長谷川さんとの思い出を語ったり写真を上げたりしていて、まるでみんなで故人を偲ぶ集まり(お通夜)のようでした。
亡くなる前夜、長谷川さんはプライドハウス東京の企画で大塚隆史(タック)さんと対談していたそうです。そのお話が最後の活動になったわけですから、記事が出たら心して読まなければという気持ちと、きっと古くからのお友達であるタックさんと楽しくいろいろ語らって、どこか吹っ切れたというか満足したのかもしれないな(よかったですね)…という気持ちにもなりました。
最期まで精力的に活動し、命を燃やした長谷川さん。本当におつかれさまでした。ありがとうございました。
(文:後藤純一)