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日本で初めて同性カップルとして婚姻届を提出して同性婚運動の口火を切り、青森レインボーパレードを立ち上げるなどして地方でのLGBTQコミュニティの可能性を切り開いた宇佐美翔子さんが亡くなりました
2014年に日本で初めて市役所に婚姻届を提出し、今につながる同性婚運動の口火を切り、青森でレインボーパレードを立ち上げ、「故郷を帰れる街にしたい」と訴え、青森での同性パートナーシップ証明制度の実現に向けて働きかけを行ない続け、地方のLGBTQに多大な勇気を与えたレジェンド、宇佐美翔子さんが9月30日、亡くなりました。53歳でした。数年前からがんを患い、闘病生活を送っていました。
朝日新聞の記事「「同性カップル宣誓1号になりたかったね」 訴え続けた53歳の死」によると、宇佐美翔子さんは20代の頃、レズビアンであることをお母様にカムアウトしましたが、「二度と帰って来るな」と言われたそうです。
故郷の青森を離れ、東京で生活していたときは共生ネットの副代表をつとめ、LGBTQのための電話相談などの支援活動に携わっていました。しかし、青森のお母様が亡くなって、2014年4月、パートナーの岡田実穂さんと一緒に帰郷し、青森駅前の飲み屋街にあるお店でコミュニティカフェ&バー「Osora ni Niji wo Kake Mashita(通称そらにじ)」をはじめました。LGBTQが安心して集える居場所というだけでなく、DV被害者やメンタルがよくない方、ひとり親、生活が苦しい方など様々な悩みを抱える方たちの相談に乗ったりもするお店でした。
同年6月、宇佐美さんと岡田さんは日本で初めて公に、同性カップルとして市役所に婚姻届を提出しました。お二人は「性的少数者の存在に目を向けてほしい、婚姻制度を使えない人がいることを知ってほしいと思い提出した」「婚姻関係がどうして男女でなければならないのかという答えはもらえなかった」「前例がないため、実際どのような判断がされるかわからなかった。不受理の判断が出たここからが始まりだと思う」と語りました。地元紙の東奥日報には、青森中央学院大学の方が「不平等状態を解消するため、議論を尽くす必要がある」とコメントするなどしました。まだ同性婚訴訟どころから渋谷区のパートナーシップ条例も始まっていない、世間的にも同性婚の議論が始まっていない時代です。しかも東京などではなく、異性愛規範が根強い(結婚圧力がものすごい)ゲイやレズビアンとカミングアウトして生きていくことが困難な青森の地で、たいへんな勇気を持って、お二人は社会に一石を投じ、歴史に名を刻みました。
同時に、宇佐美さんや岡田さんはレインボーフラッグを持って、地元の駅前の商店街をパレードしました。初めはたった3人で。翌年には24人になりました。その次の年は45人になりました。2017年は東京などからも応援に駆けつけ、ついに100人を超えました。2018年には173人、2019年には200人を超えるまでになりました。
東京のパレードにも参加し(青森ブースを出展し)、「故郷を帰れる街にしたい」と書いたのぼりを掲げて歩きました。
青森という男尊女卑的な意識(やホモフォビア)が根深く浸透している土地で、レズビアンとして生きるだけでも大変なことですが、(反発や誹謗中傷を覚悟のうえで)市役所に婚姻届を提出して今につながる同性婚運動の口火を切り、たった3人でパレードを立ち上げ、パートナーシップ制度の導入をはじめLGBTQ支援策を公に求めるという闘いをしてきました。「Broken Rainbow - japan」という団体を立ち上げ、性的マイノリティの性被害の実情を性犯罪関連法制に反映することを求める運動も行なってきました。
お金や社会的地位があるわけでもなく、向かい風の強い土地でほとんど孤立無援状態でしたが、宇佐美さんは岡田さんとともに、「私にはこれを言う権利があります」と堂々と、威厳を持って、真っ正面から、ブレずに訴え続けました。その姿に感動し、共感を覚えた方はとても多いはずです。
一方で、彼女は「そらにじ」をベースとして日頃からいろんな悩みを抱える方たちとつながり、サポートし、安心できるあたたかな居場所をつくってきました。2018年の青森レインボーパレードでは、青森のゲイバーの方や、地元の「LUSH」の店員さんたち、「故郷を帰れる街にしたい」という思いに共感した全国各地の方たちなど、多彩な人々が集まっていました。アフターパーティでは彼女が手ずから料理を作ってもてなし(ホタテが山盛りで感激しました)、地元の方たちにステージを提供していました。「そらにじ」は他の地方に住む方にも影響を与え、姫路などにも伝播しました。
そんな宇佐美さんは、2018年、がんを患い、闘病生活に入っていることを公表しました。青森のパレードのときには「病院で同性のパートナーがいるということをなかなか理解してもらえませんでした。同性のパートナーにも手術や治療の方針を聞く権利を。同性のパートナーにも緊急連絡先として連絡がいくような仕組みを」と訴え、参加者の目頭を熱くさせていました。
2019年、国会議員の方々に同性婚を実現しましょうと伝えるために開催された院内集会で、宇佐美さんは「がんの治療のために病院に行くときに、青森では同性パートナーシップ証明がまだ認められていませんので、自分たちで公正証書のような書類を作り、見せたのですが、それでも『緊急時に連絡が行かないかもよ』『それがイヤなら違う病院に行けば?』と言われました。誰もが等しく受けられるはずの治療に、専念することができませんでした。パートナーシップが認められているような自治体なら大丈夫かもしれませんが、青森はまだ…私たちは生きる場所を制限されているのです。これは、命の問題です。早く同性婚を決めてください。私の命が尽きる前に」と訴え、涙を誘いました。
そして今日、宇佐美翔子さんが9月30日午前5時に永眠したとTwitter上で発表がありました。10月4日に少人数で火葬を行ない、葬儀は予定していないものの、あらためて「送る会」を行う予定だと伝えられました。
このツイートには、「たくさんのものをコミュニティに与えてくれてありがとう」「翔子さんのパワフルな行動力と洞察力を尊敬していました」「教えられること、ほんとたくさんあった」「翔子さんにいただいたバトンを必ず繋いでいきます」など、たくさんの感謝のコメントが寄せられています。
今年10月に開催予定(日にちは直前に発表)の青森レインボーパレードは、青森県でのパートナーシップ制度の実現を!と県知事に求める要望書の提出を準備していましたが、彼女は今年の青森のパレードも、青森市や県でのパートナーシップ制度の実現も目にすることなく旅立ちました。同性婚実現にも間に合いませんでした。さぞかし無念だったと思います。Marriage For All Japanが「パートナーとの結婚を望みながらも果たせず亡くなる人をこれ以上見送りたくありません」とツイートしていましたが、同じ思いの方、本当にたくさんいらっしゃると思います。
いつか青森県で同性パートナーシップ証明制度が認められ、日本で同性婚が認められ、同性婚を求める闘いが婦人参政権運動などと同じように重要な意義を持つ社会運動であったと認められる時代が訪れたとき、翔子さんは青森が生んだ偉大な活動家として讃えられるにちがいありません(サンフランシスコにおけるハーヴェイ・ミルクのように)。そうあってほしいし、そうなるように、私たちが彼女の偉業を語り継いでいかなければならないと思います。
(後藤純一)