NEWS

1994年から世間の偏見を変えるために地道な努力を続けてきた伊藤悟さん・簗瀬竜太さんカップルの感動のドキュメンタリー記事が掲載されました

 1994年に「すこたん企画(現:すこたんソーシャルサービス)」を立ち上げ、世間の人々の同性愛嫌悪に直面しながら、講演を通じて地道に性的マイノリティへの理解を呼びかけたり、当事者の居場所づくりの活動などにも携わってきた伊藤悟さん・簗瀬竜太さんカップルについてのドキュメンタリー記事がハフィントンポストに掲載されました。お二人の25年間の歩みを振り返る、感動的な記事です。
  
 記事は、2019年9月に開催されたイベントで、お二人が新しい代表の方にバトンタッチし、一線を退くことを発表する場面から始まります。「すこたん企画」を立ち上げてから25年が経っていました。
 
 1994年、つきあって8年を迎えた伊藤さんと簗瀬さんは、ストーンウォール25周年のニューヨーク・プライドを訪れました。
 簗瀬さんは、パレードに参加して「自己肯定感のシャワーが降ってきた」と語ります。「あなたがゲイであることは素晴らしい」と書かれたプラカードを見て、「『自分が素晴らしい』なんて思ったことがなかった。『人に言えないこと』と思いながら育ってきたから、最初はこの言葉をもらう価値が自分にはないと思った。でも、ずっと歩いているうちに、言葉が自分の中に入ってきた。『祝福されている』という感覚が入ってきた」といいます。
 ニューヨーク滞在中、お二人は性的マイノリティを支援する組織を見学し、同性愛への偏見を解くために当事者たちが小中高校に出張授業に行っているという説明を受けて、感動したそうです。
「この人たちは、何のために活動しているんだろうと考えた時に、『人の尊厳を守るため』という崇高なもののために活動しているんだという考えに行き着いた。感動して、『種』みたいなものが僕の中に入ってきました」
 帰国後、お二人は湧き上がる思いに突き動かされるようにして「すこたん企画」を立ち上げました。
 高校の養護教諭などに3000通以上もの手紙を出し、数通の返信を足がかりに、講演活動が始まりました。
 当時、ゲイカップルが学校に講演に行くというのは先進的なことでした。しかし、講演先に着いたら「僕たちホモダチ」と書かれたポスターが貼られていたり、質疑応答では「ゲイに襲われたくないので、見分ける方法を教えて」といった偏見にまみれた質問が飛んできたそうです。
 1999、2000年には年間50回もの講演・研修をこなしていましたが、その裏で、簗瀬さんはパニック障害に苦しむようになり、伊藤さんも不安神経症を抱えていたといいます。講演ができなくなった時の代打が、現参議院議員の石川大我さんだったそうです。
 講演・研修を地道に続けながらも、2000年代からは当事者が語り合うワークショップ型のイベントに力を入れるようになりました(石川大我さんが主宰した20代のための居場所づくりイベント「ピアフレンズ」も、そこから派生していると思います)
 団体名も2004年5月に「すこたんソーシャルサービス」に改め、現在に至るまで年50回ほどのワークショップを続けているそうです。 
 伊藤さんは今も、90年代の講演で受けた心ない言葉がフラッシュバックすることがあるといいます。しかし、過去の痛みが少しずつ癒えてきたと伊藤さんは語ります。
「ワークショップで自分を開示していくことで、『伝えようと思って話せば、少しずつ伝わっていく』という手応えを感じるようになったんだと思います。今も落ち込むこともあるので、25年経ってもタフにはなれてないんですけど…」
 簗瀬さんは時代の変化について「自分たちが一番講演をしていた90年代から2000年代初めには、『抗議する』という行為自体に対して冷ややかな目線が向けられることもあった。でも今は、若い人を中心に認識が変わって、様々な問題について異議申し立てをする人が増えた。若い人たちのTwitterでの投稿を見て、力づけられることは多いです」と語ります。
 伊藤さんも、「LGBTをめぐる状況もまだまだ問題は山積みなんですけど、今は差別的な発言などに『おかしい』と声をあげてくれる人が増えた。変化を感じています」と語ります。

 ここまでがパート1です。パート2では、お二人の生い立ちやなれそめ、家族との関係、そして、簗瀬さんのパニック障害のことなどが綴られています。
 簗瀬さんのお母さんは、息子のカミングアウトから1年かけて対話をし、同性愛への理解を深め、お二人の生き方を書いた本が出版された時には「こういう本を出してくれてありがとう」と言って、親戚に配り、「自慢の息子」として愛してくれたそうです(泣けますね…)。そんなお母さんが亡くなり、「何があっても味方する。あんなにいい人滅多にいないんだから、伊藤さんのこと大切にしてあげなきゃだめだよ」と応援してくれていたお姉さんも亡くなり…。
 お二人は、すこたんの活動だけでなく、ご自身の人生でも、「人の尊厳」と向き合い続けてきました。
「自分を肯定すること、パートナーを尊敬すること、家族の人生と向き合うこと、性的少数者みんなのために闘うこと、全ての人に優しい社会を目指すことーー。人生のいくつかのステージを過ぎた今もまた、「人の尊厳」が尊重される社会を作ることに、自分たちなりの方法で向き合い続けている」

 パート3は、千葉市でパートナーシップ宣誓を受けたことについてのストーリーです。
 お二人はもともと船橋市にお住まいでしたが、2012年に簗瀬さんが病院の救急処置室に入った際、伊藤さんが「家族以外は入れない」と入れてもらえなかったことがあり、パートナーシップ宣誓を受けるために、千葉市への引っ越しを決めました。昔はゲイカップルの部屋探しは大変だったのですが、今の不動産屋の若いスタッフの方は「すごいですね!」という反応で、とてもスムーズだったそうです。
 千葉市のパートナーシップ宣誓証明書交付式は淡々と済ませたお二人ですが、いただいたパートナーシップ証明カードは簗瀬さんにとって「よく効くお守りのような存在」だそうです。「たとえ交通事故に遭っても、このカードを手掛かりに伊藤さんに連絡がいくだろうと思える。何気ない日常の安心感が違うんです」
 伊藤さんは、「当然、同性婚の選択肢ができることは必要です。パートナーシップ制度も、県単位で実施する茨城県のように、都道府県単位で広がってくれれば、さらに安心です」と語ります。「パートナーシップ制度が広がったことで、LGBTについての社会の意識は変わったと思います。私は教育に関わり続けてきましたが、カミングアウトをしている若い世代は明らかに増えています。初対面の若者に『性自認はクエスチョニングです』と言われたこともあり、変化を感じます」「一方で、変わってないこともあります。いまだに、親にカミングアウトしたら『出てけ』と言われたという話や、職場で同性愛を『ネタ』にする人がいて居づらいなどの悩みも聞きます。政治、行政だけでなく企業も、引き続き性的少数者への理解を深め、動いてほしいと思います」

 パート3で簗瀬さんは、30年前を振り返り、「当時、ゲイの人たちの中では、『30歳を過ぎたら、ゲイであることを隠して女の人と結婚して生きていく』のが『スタンダード』だと思っている人も多かった。『ゲイとして生きて行く』のは難しい社会だったから。まして、『同性同士のパートナーとして生きていける』というイメージなんて持てなかった」と、「(救急処置室に入った3年後に)渋谷区・世田谷区でパートナーシップ制度が始まるなんて思いもしなかった」と語っていますが、これだけ社会が変わったのは、間違いなく、お二人のような地道な活動を続けてこられた方のおかげですよ、と申し上げたいです。感謝申し上げます。
 

 
参考記事:
25年前、ゲイカップルは講演を始めた。偏見と向き合う日々を超え「闘いと愛のバトン」を次世代に引き継いだ【あるゲイカップルの記録①】(ハフィントンポスト)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/sukotan-25_jp_5f20f03ac5b6b8cd63af7cc8
パニック障害の自分を「許してしまおう」。姉との別れから考え続けた「社会に適応するより大切なこと」【あるゲイカップルの記録②】(ハフィントンポスト)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/sukotan_jp_5f20f25bc5b66a5dd636ccbe
出会いから34年目のパートナーシップ宣誓が“変えた”こと「日常の安心感が違う」「お守りのよう」【あるゲイカップルの記録③】(ハフィントンポスト)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/sukotan-partnership-chiba_jp_5f20f281c5b6b8cd63af7f80

ジョブレインボー
レインボーグッズ