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【インタビュー】2000年のパレード&レインボー祭りと、ピンクドット沖縄を成功させた砂川秀樹さん
2000年に開催された東京レズビアン&ゲイパレード&レインボー祭りは、性の多様性を祝福するお祭りとして大きな盛り上がりを見せ、コミュニティの様相をガラリと変えました。その立役者である砂川秀樹さんに当時を振り返ってお話を聞きながら、2000年の奇跡/軌跡を追います。併せて、ピンクドット沖縄の立ち上げについてもお話をお伺いしました。
TRP以前、東京のパレードは8月に開催されていたと言うと、驚かれるでしょうか?
2000年〜2010年に断続的に開催された東京レズビアン&ゲイパレード〜東京プライドパレードと、後夜祭としてのレインボー祭りは、性の多様性を祝福するお祭りとして大きな盛り上がりを見せ、コミュニティの様相をガラリと変えました。特に第1回、2000年8月27日(日)は、LGBTQ史に残る1日となりました。代々木公園で第1回東京レズビアン&ゲイパレードが開催され、全国から集まった2000人を超える方たちが、東京で初めて出展されたドラァグクイーンなどが乗ったDJフロートでクラブミュージックと一緒に盛り上がり(沿道で応援していた方もたくさんいました)、帰着後はステージ上でレズビアンやゲイのミュージシャンのライブを楽しみ、最後に泣きながら挨拶した実行委員長の砂川秀樹さんに心からの拍手を贈り…性の多様性を祝福するコミュニティのお祭りとしてのパレードは、孤独を感じていたり、自暴自棄になっていたりしたような当事者の方たちにも勇気を与えました。本当にたくさんの方たちが「行ってよかった」「感動した」と口々に語っていました(ポット出版の『パレード』という本につぶさに記録されています)
それだけでなく、パレード終了後の二丁目では、第1回東京レインボー祭りが初開催され、メインストリートである仲通りが歩行者天国となり、5000人とも6000人とも言われる人たちでごった返しました。ゲイバーのマスターたちがお酒や食べ物の屋台を出店し、路上ではドラァグクイーンのショーや当事者ミュージシャンのライブ、エイサー演舞、スクエアダンスなどたくさんのパフォーマンスが行なわれ、最後に、モーニング娘。の曲でイェイイェイ盛り上がり、ドラァグクイーンのHOSSYさんのカウントダウンでレインボーカラーの風船を一斉にリリース…すると、ビルの屋上からまさかの花火が二丁目の夜空に打ち上げられたのです。感動のあまり、友達と抱き合ったりしながら号泣する人たちが続出しました。
以前、二丁目に通う方たちは、人目を忍び、隠れるようにしてお店に入っていくのが常でしたが、まさか、二丁目のメインストリートでお祭りが開催され、サプライズの花火まで打ち上げられる日が来るなんて…「ゲイに生まれてよかった」と思えて、二丁目コミュニティの一員であることに誇りを感じることができた方も多かったはずです。パレードの後夜祭として開催されたレインボー祭りは、性の多様性を祝福するオープンなお祭りとして、二丁目という街の姿を(コミュニティの様相をも)ガラリと変える、LGBTQの歴史に残る大事件でした。2000年8月27日以前と以後とでは、何かが全く異なってしまったのです。初めて5000〜6000人の当事者が路上に出て性の多様性を祝い合ったという意味では、(暴動とは真逆の平和的なイベントでしたが)「日本のストーンウォール」と言えるかもしれません。少なくとも、後にも先にも(先にはあるかもしれませんが)こんなに熱い、こんなに大勢が号泣した日はありませんでした。2000年8月27日は、そんな、奇跡的な1日でした。私はこの日のことを一生忘れません。
この2000年のパレード&レインボー祭りが当事者コミュニティにとってどれだけ素晴らしいイベントだったかということ、そしてこの歴史的な偉業を実現した砂川秀樹さんが(砂川さんはピンクドット沖縄の創設者でもあるのですが)、どれだけの血と汗と涙を流してこのイベントをやり遂げたかということを、アライのみなさんにも知っていただきたいと思い、22年が経った日に、砂川さんへのインタビューをお届けすることにしました。
(なお、東京レインボー祭りは、二丁目でゲイクラブやショーパブ、「CoCoLo Cafe」などいくつものお店を経営していた川口昭美(あきよし)さん=通称アキさんが、パレードと連携してお祭りをやろうということで企画し、二丁目のたくさんのお店に声をかけて実現したものです。そういう意味では、アキさんも功労者の一人なのですが、残念ながら20年前にお亡くなりになっています…ので、今回は、私と砂川さんが代わりにアキさんの偉業を語りたいと思います)
(聞き手、文:後藤純一)
パレード 東京レズビアン&ゲイパレード2000の記録
発行:ポット出版、砂川秀樹:監著
砂川秀樹
文化人類学者・博士(学術)/ 明治学院大学国際平和研究所研究員
都留文科大学文学部英文科卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。
1990年からHIV/AIDSに関する活動や研究に従事。ぷれいす東京では、団体内のゲイグループ「Gay Friends for AIDS」の代表として1996年、厚労省疫学研究班とゲイグループの初めての協働研究を実現。電話相談の相談員も務めた。
2000年には、東京レズビアン&ゲイパレード(のちの東京プライドパレード)を実行委員長として開催。その後、2005年、2006年、2009年、2010年に同パレードの母体団体TOKYO Prideの代表となり、2009年の東京プライドフェスティバル、2010年の東京プライドパレードでは実行委員長を兼ねた。
2011年4月、故郷の沖縄に戻り、その年に「レインボーアライアンス沖縄」を設立。2013〜2016年に沖縄初のプライドイベント「ピンクドット沖縄」を開催(宮城由香氏とともに共同代表を務めた)。
2016年には東京に居を戻し、大学の非常勤講師として勤めながら、LGBTQに関するテーマを中心に講演、執筆活動を続けている。
著書に『カミングアウト』(朝日新書)、『新宿二丁目の文化人類学』(太郎次郎社エディタス)、編著に『カミングアウト・レターズ』(太郎次郎社エディタス)など。
「火中の栗を拾う」決意をした理由
――東京レズビアン&ゲイパレード(2007年からは「東京プライドパレード」)は、単にデモ行進として街を歩くというのではなく、DJフロートにドラァグクイーンが乗り、沿道の方なども楽しめるようなハッピーなお祭りであり、また、著名人がたくさん参加・出演したり※1、大阪府議の尾辻かな子さんがカミングアウトしたり、Eテレ『ハートをつなごう』の公開収録を行なったり、ソフトバンクのような有名大企業が協賛してくれるようになったり、といった歴史的な出来事や数々の名場面があり、2010年代以降のLGBTQムーブメントの発展の礎の一つとなってきたと思います。今回は、この2000年代で最も重要なプライドイベントであった東京レズビアン&ゲイパレード〜東京プライドパレードの代表であった砂川秀樹さんに、特に奇跡的な感動を生んだエポックメイキングな2000年のパレード&レインボー祭りの立ち上げについてお話をお聞きしたいと思います。まず、砂川さんが最初に参加したのはどのパレードだったのでしょうか?
1995年。南さんの2回目のパレードです。
――そうでしたか。ILGA日本の代表だった南定四郎さんが1994年8月に日本で初めてパレードを開催し、最初はみなさん「石を投げられるのではないか」と恐る恐る参加していたというエピソードも伝え聞いていますが、2回目の1995年には渋谷の駅前も通ったり、ドラァグクイーンが乗ったオープンカーの様子などもニュースで流れたりして、華やかだったんですよね。1996年の第3回のときも参加されてました?
1996年は参加していなかったのですが、あとで紛糾している様子の記録映像を見せてもらい、これは大変だ…と。
――私は実は1996年のときに初めてパレードに参加し、ドラァグクイーンを始めたばかりの頃で、とにかく楽しくて仕方がなかったので、公園に戻って来たあと、壇上で何か揉めてるなぁと思いながらも、あまり気にせず、会場をあとにして。その後、南さんが編集長を務める『アドン』誌が(『アドン』は学生時代に愛読していて、そこを通じてパートナーと出会ったりしたので、思い入れのあるゲイ雑誌でした)、“暴徒が壇上に上ってきて、破壊工作を繰り広げた”みたいな追及の号になっていて、そちらのほうがショックで…まるで自分たちに刃が向けられたような気がして…二丁目のゲイショップも『アドン』をボイコットし、やがて休刊に…。あれでコミュニティの方たちの多くは、南さんやパレードから距離を置くようになりましたね。
揉み合いのなかで、組織側の一人から「レズのくせに」という発言が出たことは、レズビアンコミュニティの大きな反発を招き、長らく尾を引く出来事となりました。一方、あまり知られていないかもしれませんが、その時の運営委員長の方がその後、自死されています。本当に痛ましいことです。
――そうなんですよね…。そのような悲劇のあと、札幌では毎年パレードが続けられていたものの東京では開催されず※2、空白といいますか、東京でこのままパレードがない状態が続くのはまずいよね、どうにかしなくちゃねと言われていながらも、あれだけパレードへの印象が悪くなってしまったなか、じゃあ、一体誰がパレードをやるのか、と。そういうなかで、砂川さんが1999年のレインボーマーチ札幌のプライド集会で、「来年、東京でパレードをやります」と発表したんですよね。
はい。7月か8月にやると決めて、9月の札幌のパレードで発表しようと考えて参加しました。また、それまで、東京のパレードに一回しか参加したことなかったので、様子を見ようというのと、札幌の実行委員にアドバイスをもらおうという目的もあり。パレード当日は、当時のパートナーが作ってくれた手書きのプラカードを掲げ、パレード後の集会で開催を発表しました。前日の交流会でも、当日の会場でも、「本当にやるの?」みたいな空気感が漂っていたことを思い出します。
――どよめきが起こったんでしたっけ。一方で、砂川さんがやるならきっと大丈夫という、説得力や安心感も広がっていた気がします。「火中の栗を拾う」という言葉がこれ以上ふさわしい場面ってそうそうないだろうな…と思えるくらいの、本当に勇気のある決断だったと思いますが、そういう損な役回りを引き受けようと思ったのは、どのような気持ちだったのでしょうか。今とは比べものにならないくらい、世間の差別や偏見が強かった、アライなどほとんどいなかった時代に、プライドパレードがほぼ唯一の社会に向けた当事者運動だったという意義はもちろんありますが、ほかならぬ自分が、相応の自己犠牲は覚悟のうえで、パレードをやろうと決意した理由を教えてください。
『パレード』にも書きましたが、「コミュニティへの恩返し」ですね。二丁目で…それこそゲイバーのミセコ(バーのスタッフ)をやったこともありますし、ゲイコミュニティがあったおかげで、自分が自分らしく生きられるようになったという、それまでの自分が受けてきたたくさんの「よかった」ことに対して、今こそ恩返しすべきときじゃないかと。その頃はHIV予防啓発の活動をしていて、ゲイ雑誌でコラムを書いたりもしていたので、顔も広く知られていて、ネットワークもあって。なので、自分がやるのがいちばんいいんだろうなという、使命感のような思いもありました。「やりたい!」というよりは、「私がやるのがいちばんいいのだろう」という感じで。大学院生だったので、時間に融通が効くという面もありました。
――当時は大学院生だったんですね。
やると決めたのは博士課程1年のときでした。修士課程のときから、二丁目コミュニティの研究をしていたのですが、パレードという、コミュニティの動きに大きな影響を与えるイベントの旗振り役をするということで、研究者としての道はあきらめなくてはいけないだろうなと思いました。でも、結果としては、指導教官がとても理解があり、応援してくれて、無事に博論を書くことができました(『新宿二丁目の文化人類学』として出版されています)
――やると決めたものの、南さんのパレードの何かを引き継いだということも一切なく、一から全てを作りあげなければいけなかったと思います。私も2001年に実行委員をやったのでわかるのですが、都や厚労省の後援を取り付け(後援がないと代々木公園の使用が困難に)、警察に安全な運行のための協力を依頼し、企業や団体などからの協賛を募り、フロートやブース出展などの募集を行ない、音響業者や出演者と交渉し、パンフレットやWebサイトを製作し、ステージ上に掲げるレインボーフラッグを縫い、テントや物販用のグッズを準備し、記録用のビデオなども準備し、メディア対応、当日の諸々…数え切れないくらいの膨大な仕事がありますよね。それを一から作り上げるのがどれだけ大変なことか…気が遠くなります。よく決意したなと思います。
具体的に何が必要かすらよくわからずにやりはじめた、というのが正直なところです。最初に声をかけて実行委員に入ってもらった友人とは、「初めてだし、小さくやろうね」と言っていたのですが、やるべきことがどんどん増えていって。周囲からのいろんな期待もあり、プレイベントも開催したり、私が当初イメージしていたものより大規模になっていきました。そのため、プレッシャーも大きくなり、押し潰されそうでした。また、1996年のパレードの騒動の結果、コミュニティのネガティブなイメージが強く残っていて、それをどう変えていくか、というところもしんどかったですね。
――当事者のインディーズ・ミュージシャンによる初の音楽祭や、田亀さんなどの作家さんにサインしてもらえるイベントなど、多彩なイベントが開催されて、パレードに向けての期待を高めていくようなムードが作られていました。そして後夜祭としての初のレインボー祭りの開催も、二丁目コミュニティの大きな関心事でした。レインボー祭りの開催は、アキさん自身が前からお祭りをやりたいという構想があって、そこに砂川さんがパレードとの連携を持ちかけて、タイミング的にちょうどよかった、うまくまとまったという感じですよね。
アキさんとは以前から、HIV関係の活動のことでやりとりをしていました。その中で、ただゲイビジネスをやっている方というより、コミュニティのために、という意識をお持ちの方だと感じていて。そういうこともあって、アキさんに話を持って行こうと思って。
――アキさんは本当に素晴らしい方で。二丁目に「Delight」というゲイクラブを作って、ここでパレードのアフターパーティもやりましたし、ゲイカップルの結婚式もありましたし、本当に様々な、素晴らしい瞬間が生まれる場所になりました。海外のゲイシーンも視察してきたり、二丁目をよくしていこうという気持ちに燃えていた方でした。1999年の大阪での「DIVA JAPAN」に来られたときは「私も何かやりたい」と目をキラキラさせながら話していたのを憶えています。
おおらかさと、人徳があり、多くの人に慕われている方でしたよね。実は、二丁目でのお祭りという形でパレードのアフターパーティーをというアイデアを最初に口にしたのは、新宿の「リキッドルーム」などで大きなゲイナイトを開催していたユキさんだったんです。それをパレードの実行委員会でやったら?という話だったのですが、それを聞いたときは、正直、無理だと思いました。それで、アキさんにパレードへの協力をお願いしにいったときに、その企画の話もしたんです。そして、パレードで精一杯のパレードの実行委員会は、とても二丁目の祭りまで手をつけられなかったところ、アキさんが二丁目でお店をやっている身近な方々に声をかけてくださって、企画が動きだしました。アキさんがいなかったら実現しなかったと思います。いろんなつながりが合流して、あのお祭りの奇跡が生まれました。
※1 吉本興業所属の音曲漫才コンビ「姉様キングス」のライブ(2001年)、中村うさぎさん&岩井志麻子さんがパレードの先頭を歩く(2001年)、戸川昌子さんのライブ(2002年)、西原理恵子さんのスピーチ(2007年)、ソニンさん&石田衣良さんが司会(2009年)、中西圭三さんのライブ(2010年)、米倉利紀さん・ソニンさんら『RENT』のキャストのみなさんによるライブ(2010年)など
※2 1997年にダイクマーチというセクシュアルマイノリティ女性のパレードが200名規模で開催されたほか、南さんも実質的な広報を行わずごく小規模で開催しています。ILGAの活動やHIV/エイズの活動や、コミュニティセンターの設立、映画祭の立ち上げなど、南さんがLGBTQの運動のなかで果たした役割はきちんと評価されなければいけない、とコミュニティ内で「名誉回復」が行なわれるまでに20年近い歳月を要しました
「生きるか死ぬか」の苦しさ
――砂川さんのパレードとレインボー祭りの成功によって、みんなで一緒に外に出て、性の多様性を祝福するお祭りを楽しもうというムードが初めてコミュニティ内に一気に醸成されたと思います。以前は二丁目も「会員制」の札が貼ってあるゲイバーに隠れるようにして入っていくような街だったけど、お祭りによって人々の意識が大きく変わって、外に出て、大勢でオープンに楽しむことがこんなに気持ちいいのかと、じゃあ来年はパレードにも行ってみるか、というような気持ちの変化につながったと思います。砂川さんのパレードでリブ的なものと二丁目的なものとクラブ的なものが初めて融合したし、レインボー祭りも含めてあの日、「コミュニティが誕生した」と『バディ』誌で伏見さんがおっしゃっていたのですが、本当にそうだと思いました。個人的には、暴動ではないですが、大勢が路上に出て性の多様性を祝いあった記念日として「日本のストーンウォール」と言ってしまってもいいのではないかとすら思いました。とはいえ、『パレード』の本によると、当時はあまりネットが発達してなかったこともあり、レズビアンやトランスジェンダーの方のコミュニティにパレードの情報が届いてたかというと、十分ではなかったかもしれない、ということが課題として挙げられていました。実行委員のなかには野宮亜紀さんのようなトランス女性やレズビアンの方もいらっしゃいましたし、砂川さん自身はできるだけ多様なジェンダー・セクシュアリティの人々と連帯しようという意識でしたよね。パレードの当日、レズビアンのCHU〜さんたちがライブを披露したり、トランス男性の活動家である虎井まさ衛さんがスピーチしたことにも表れていると思います。
そうですね。野宮さんが参加してくれたのは、とてもありがたかったです。東優子さんという、トランスジェンダーのことの研究を長らくしていた友人に、「誰かトランスジェンダーの人で、実行委員になってくれそうな人いないかなぁ?」と相談したときに名前が出たのが野宮さんでした。レズビアンコミュニティとの関わりで言うと、1996年の紛糾(「“レズ”のくせに」発言)のことが尾を引いていて、「あのパレードのことはどう総括しているのか」と問題視する人たちもいて…。私たちは全く別組織でしたし、それに対して私たちがどう応答すべきか難しくもあり。そういう過去の遺恨もあり、そもそもパレードというものをよく思っていない方からの批判もあり、実行委員会内でも意見が分かれてぶつかるときもあって…一時は「やめよう」と思ったこともありました。最初から実行委員会に参加していた友人に、「実行委員長を辞めようと思う」と言ったこともありました。もちろん反対されましたし、それは現実的ではなかったので、がんばりましたが。
――そうだったんですか…本当に大変だったんですね…。
そもそも会場をどこにするかということでも揉めました。実は代々木公園は、使えるかどうかが結構開催日程が近づかないとわからなかったんです。当時、代々木公園を使用するためには行政の後援が必須だったのですが、当時、パレードという人権イシューでは東京都関連の後援は取れる可能性はなく。そこで、HIV予防啓発のシンポジウムをやりますということで、東京都福祉保健局の後援をいただいて、それで会場を押さえるというアクロバットなことをやりました。結果、それで押さえられたわけですが、不透明なときに、確実に早めに確保できる宮下公園での開催を主張する声が実行委員会内では多かったのです。でも、宮下公園は小さくてブースも出せないし、雰囲気も暗く…なので、私は、代々木公園を強引に押し通しました。宮下公園では、収容人数としても厳しかったのではないかと思います。それに、雰囲気が全然違ったと思います。結果的にはよかったです。
――本当によかったです。いろんな奇跡が積み重なったんだなと思います。『パレード』に、松沢呉一さんがこの本を出そうよと提案してくれたけど、砂川さんが終わったあとで燃え尽きてパレードのことがトラウマになってしまったので、すぐにお返事できなかった…と書かれていましたね。あんなに成功したイベントなのに、トラウマになるというのは、なぜだったのでしょうか。
小さい負担がたくさん積み重なるし、さきほどいったように実行委員内での調整もあるし、決断しなくてはいけないことも多くて。そうやってだんだん疲れていくし、プレッシャーが大きくて。当日も、フタを開けるまで人が来てくれるかわからなかったし。睡眠時間も削られていき…。つらかったですね。警察との交渉にしても、なぜ隊列の前に車を置く必要があるのか、ということも説得しなくてはいけなかったり、一つひとつが大変でした。あとは、細々、失敗もするわけです。コミュニティの人からも責められたり。当日も、実行委員会フロートが音をうまく出せないというトラブルがあり…つまらないパレードだったと言われることがいちばんつらかったです。でも、この本を見ると、みんなの笑顔に励まされます。
――そうでしたか…。私は『バディ』フロートにずっといて、本当に何百人もの方たちがクラブのように盛り上がって。楽しかった思い出しかないです。この『パレード』の記録本には、参加した方たちの声もたくさん載っていて。自暴自棄に生きていた、孤独だったという方が、初めて「自分のままでいいんだ」と思えた、というような感動的な言葉にあふれていて、今読んでも涙します。そういう、人の命を救うというと大げさかもしれませんが、特に若い方とか、地方の方とか、孤独に悩んでいた方たちを励ましたり、生きる糧につながったり、数々のドラマがありました。砂川さん、本当にいいことをしてくれました、コミュニティの恩人ですね、と感謝していた方は多いと思います。
ありがとうございます。あの時の大変さを思うと、ほかのことは大したことないと思えます。文字通り生きるか死ぬか、みたいな感じでした。当時住んでいたマンションは、部屋が7階にあったんですが、部屋を出る度に目の前の道路を眺めて「落ちれば楽になるのだろうか」と思う日々でした。生き延びることができてよかったと思います。
――友人の春日亮二(がんすけ)さんの支えもあったのではないかと思います。
彼は、僕が助けを求めるまで見守ろうと思っていたようです。ですから、最初から手伝ってもらうという形ではなく、でも、自分のできることで応援しようと思ってくれて、パレードを盛り上げる意味もこめて、「レズビアン&ゲイミュージックフェスティバル」を開催してくれて。最後は、私があまりにも大変だったので、細かい製作物も含めて、いろいろ手伝ってくれました。そして何より、いろいろうまくいかなくて、とても沈んで死にそうになっているときに励ましてくれましたね。
――すべては砂川さんがやると決意してくれたおかげで、あのパレードと二丁目の花火で大勢が感動し、コミュニティが大きく変わりました。
私は実は花火には間に合わなかったんです。パレード会場のゴミの片付けをしていて。祭りに間に合って花火を見たがんすけが、「砂川にも見せたかった」と泣いたと聞きました。
私は、最初のレインボー祭りの様子は、新宿二丁目振興会が撮った記録動画で何度も観て、すっかり参加したような気分です。
地元・沖縄での貢献
――すっかり話が長くなってしまいましたが、大急ぎで、ピンクドット沖縄のことについてお聞きしたいと思います。砂川さんが沖縄に帰ることになったのは、2011年?
2011年4月です。東京の仕事の区切りがついて。それと、(2003年、2004年とパレードをやる人がいなくて開催されなかったので)2005年に再び東京でパレードをやるための立て直しを行ない、2009年に東京プライドフェスティバル、2010年に東京プライドパレードを開催して、もう疲れきってしまったということがありました。あと、2007年にがんすけが亡くなったときに、どこかもう東京を離れようかなという思いもありました。それで、沖縄に帰ろうと。それでも、東京で培ったことを地元の沖縄でも活かしていこうと思い、レインボーアライアンス沖縄という団体を作って、活動を始めました。翌2012年には、コミュニティスペースも設立して。
――「GRADi」でしたっけ?
そうです。Grass Roots Activities for Diversity(多様性のための草の根活動)という言葉の頭文字を取りました。そのコミュニティスペースで那覇市の「コミュニティ活性化事業」の助成を受けて、学習会などを開いていました。社会心理学の講座で、社会をどう変えていくかということの一例として、シンガポールのピンクドットの映像を見ていて、沖縄でもやりたいねと言ったのが最初。そのときは、先々やれればいいかなというイメージだったのですが、アライの男性の方が「やりましょう!」とすぐに言ってくださって、翌2013年に開催することに。
――トントン拍子に。沖縄は世間が狭くて、ちょっと街を歩くと親戚や同級生に会ってしまう、地元の当事者の方たちはとてもじゃないけどパレードなんて参加できないという話で、無理にパレードというかたちをとるのではなく、沖縄の実情に合わせて、ピンクドットのように、みんなでピンクの服を着て集まって、社会にメッセージを送るという集会型のプライドイベントをやることになったんですよね。
そうですね。沖縄でまだLGBTQが顕在化してないなかで、主張感が強いと見られるかもしれないということもあって。自己主張を好む県民ではないので。知らない人が見たらネガティブな印象を与えるかもしれないという懸念もありました。
――那覇市が第1回から「共催」していたのがスゴいと思います。LGBTQイベントを自治体が共済するのは初めてではないでしょうか。
2000年頃から毎年、那覇市のなは女性センターで、ジェンダーとかLGBTQについての講座をやっていたので、共催のこともスムーズにいきました、なは女性センターに、那覇市に後援依頼をお願いに行ったら、もう申請書出しときましたよ、くらいの。本当に協力的で、ありがたかったです。
――素晴らしいですね。2016年には、那覇市で同性パートナーシップ証明制度が施行されて、第1号となったカップルの結婚式が行なわれ、城間市長が証明書を直々に手渡し、お祝いのスピーチをして、カップルの友人だった中島美嘉さんがサプライズで歌ってくれたりして、本当に感動的なイベントになりました。しかし、その後、砂川さんがまた東京に行くことになり、残されたアライの方たちがピンクドットを引き継ぐことに。
沖縄では生活が成り立たなかったので、また東京に戻ることに決めました。宮城由香さんというレズビアンの方が一緒に共同代表をやってくれていたのですが、二人とも共同代表を辞めることにして、実行委員会の中で代表をやるという人がいなかったので、スポンサーにピンクドットは休止しますと伝えました。そうしたら、スポンサーとして応援してくれていたホテルパームロイヤルNAHAの高倉さんやアライの方たちが、「もったいないので、引き継ぎます」と言ってくれて、今に至ります。
――全国的に見ても、アライの方が主催してこんなに大規模になったプライドイベントってほかにないですし、とてもユニークで貴重な、面白いイベントになっていると思います。
沖縄でプライドイベントをやるにあたって、観光資源としてアピールしたほうが地元で受け入れられるにはいいだろう考えもあり、沖縄観光コンベンションビューローに後援のお願いをしました。高校時代の友達で通訳派遣などの会社を経営している女性がいて、紹介してもらって。
――地元のつながりも活かして。
もともとあったつながりと、高倉さんたちのような新たなつながりで。高倉さんも、1回目のときは、お父様の会社だったということもあり、少し遠慮があったようですが、高倉さんが、イベントの協賛についてお父様に話したら、「いいことやってるじゃない」と言ってくださり、2年目からは大々的に協賛してくれるようになったと聞いています。
――志が正しければ、いいことやってるね、素敵だねと言って協力してくれる方が現れますね。がんすけさんが『パレード』の本のなかで、砂川さんが利他的な動機でやってたからうまくいったと話していて、本当にそうだと思いました。最後に、砂川さんにとってPRIDEとは何かということをお聞きしたいと思います。
自分が自分のままでいいと思えること。それを感じさせるイベントがプライドイベントかなと思います。
――砂川さんのこれまでの活動、コミュニティへの貢献を見ていると、その人生がすべてPRIDEの表れなんじゃないかと思ったりします。本当にありがとうございました。
- INDEX
- レポート:「トランスジェンダーを含むLGBTQ+差別に反対する映画監督有志の声明」掲出プロジェクトに関する会見
- レポート:東京トランスマーチ2024
- レポート:みやぎにじいろパレード2024
- レポート:「work with Pride 2024」カンファレンス
- レポート:やまがたカラフルパレード
- 来年ワシントンDCで開催されるワールドプライドについて、Destination DCのエリオット・L・ファーガソンCEOにお話を聞きました
- レポート:レインボーフェスタ!2024(2)
- レポート:レインボーフェスタ!2024(1)
- レポート:IGLTA総会in大阪
- 「結婚の自由をすべての人に」東京一次訴訟高裁判決の意義と喜びの声