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【PRIDE JAPAN オープニング企画】 PRIDEとは何か?――畑野とまとさんインタビュー

PRIDE JAPANの新規オープンに際し、PRIDEの本来の意味について詳しく知る第一人者の一人であるトランスジェンダーの活動家・畑野とまとさんに「PRIDEとは何か?」についてインタビューしました。ストーンウォール周辺のPRIDEの起源から、昨今の「進化した」PRIDEのことまで語っていただき、日本ではあまりきちんと認知されていないかもしれないPRIDEの「本筋」の意味についてお届けします。

 畑野とまとさんは1996年、日本で初めてトランスジェンダーのホームページ『トランスジェンダーカフェ』を開設したトランスジェンダーのライター/活動家で、海外のLGBTQの情報を精力的に日本に伝えてきた方であり、誰よりもPRIDEを体現する方でもあります。ストーンウォール50周年の2019年には「ストーンウォールの蜂起50周年『知らなければいけない ゲイプライドの原点!』」と題したトークショーを開催、同年10月には盛岡でプライドパレードの歴史について語るトークイベントに出演、昨年初開催予定だった秋田プライドマーチでは「プライド・パレード50年の歴史」の講演を行なう予定でした(コロナ禍で延期になりました)。また、11月20日のトランスジェンダー追悼の日には二丁目のクラブで追悼イベントを開催しています。共著:『トランスジェンダリズム宣言』『セックスワーク・スタディーズ』ほか
 後藤自身は1996年から『バディ』というゲイ雑誌の編集に携わり、北丸雄二さんの連載なども担当させていただき、シドニーのマルディグラに行ったりもして、海外の情報をそれなりに知っていたつもりだったのですが、また、2001年にパレードの実行委員を務めたり、東京や札幌で『バディ』のフロートを出したり、パレードへの関わりを通じてPRIDEということもそれなりに理解していたつもりだったのですが、5、6年くらい前から畑野とまとさんのTwitterをフォローさせていただいて、ストーンウォールの英雄であるマーシャ・P・ジョンソンやシルヴィア・リヴェラのことなどを初めて知って、まだまだ自分は未熟だった…と痛感しつつ、実にたくさんのことを学ばせていただきました。
 そうしたこともあって、今回、「PRIDE JAPAN」の立ち上げに際し、オープニング企画として、「PRIDEとは何か?」について畑野とまとさんにインタビューを行なうことにしました。ストーンウォール以前のPRIDEの起源から、昨今の「進化した」PRIDEのことまで語っていただき、日本ではあまりきちんと認知されていないかもしれないPRIDEの「本筋」の意味について、お届けしたいと思います。

後藤純一 
2021.5.11
 
 


畑野とまと ライター/トランスジェンダー活動家

 26歳からトランジションを始め、29歳でトランス女性として再出発。96年に国内最初のトランスジェンダーHP『トランスジェンダーカフェ』を開設し、トランスジェンダーに関係する情報発信を始める。ニューハーフヘルス嬢として10年のセックスワークを経て現在はライターをしながら、トランスジェンダーの人権や非病理化などを掲げてトランスジェンダー活動家として情報発信も継続している。



 

――畑野とまとさんが海外のLGBTQに関する情報を熱心に集めようと思ったのは、どのようなことがきっかけだったのでしょうか?
 
 トランスジェンダーのことを知りたいというのが大きな動機でした。1994年、初めてトランスジェンダーの団体ができて、私がインターネットの担当になったのですが、当時の代表の方に「トランスジェンダーという言葉があるんだよ」と教えてもらい、「インターネットで調べればいいんじゃないか」と思って調べてみたんです。ところが、日本語では1件もヒットしなかった。そこで、アメリカのYahoo!で英語でトランスジェンダーを調べたら、山ほど出てきたんですね。それを1件1件、見ていって、手術の話とか、歴史の話とか、ものすごい情報量でした。1996年に「トランスジェンダーカフェ」というホームページを開設したのですが、当時アメリカで勉強していた学生の方などにも手伝ってもらって、医学系の情報など、トランスジェンダーに関する様々な海外の情報を発信するようになって。そうして海外のニュースを日本に持ち込む癖がついたんです。

――まだ日本ではトランスジェンダーに関する情報もあまりなかった時代に、必要に迫られて調べはじめ、そうしているうちに海外のLGBTQのことに詳しくなっていったんですね。

 当時、海外では、同性婚の話もトランスジェンダーの話もかなり活発にされていたんですが、日本には伝わってなくて、あまり話題になっていなかった、温度差がすごかったと思います。なので、よけいに海外のニュースを熱心に見るようになったかも。

――この後、詳しくお聞きますが、そもそもPRIDEとは何か?ということを簡単に一言で言うと、どういうことになるでしょうか。

 PRIDEについて、田亀源五郎さんと話したことがあるんですが、ゲイプライドとは、自分が胸を張ってゲイだと言えるということじゃないかと。"かわいそう"とかじゃなく、誇りを持っているということ。

――2019年のストーンウォール50周年の時に初めてNYに行って、「ストーンウォール・イン」に「where Pride began」というフレーズが書かれているのを見ました。なぜ「ストーンウォール・イン」が「PRIDEが始まった場所」だと言えるのか、ということを教えてください。

 少し長くなりますが、アメリカの歴史をひもとくと、禁酒法の時代、実はドラァグクイーンのショーが大ブレイクしてたんです。みんなお酒を地下で飲むわけですが、ドラァグクイーンの「ボール」と呼ばれるパーティも地下で行なわれていて、酒のツマミにショーを観るというかたちでいつの間にかそれらが融合して、全米各地でドラァグクイーンのカルチャーが花開いていった。あまりにも目立ってしまったために、バックラッシュが起こります。1953年、アイゼンハワー大統領は、連邦政府の施設や関連企業でのゲイの雇用を禁じるとの大統領令を発令し、弾圧が始まります。ゲイバーやドラァグのお店で警官が摘発に来るようになりますが、シスジェンダーのゲイやレズビアンは見た目ではわからないということもあり、見た目であからさまにわかるトランスジェンダーやドラァグクイーンが逮捕の標的となりました。
 50年代に2つの暴動が起きます。ロサンゼルスの「クーパーズ・ドーナッツ」、そしてサンフランシスコの「コンプトンズ・カフェ」。ここはドラァグクイーンやトランスジェンダーが集まるたまり場で、通報があると警官がやって来て「IDを見せろ」と言う、見せるとID上は「男性」なので、逮捕されてしまう…19世紀に作られた異性装を禁止する法律っていうのがあって、それを根拠に。そうした嫌がらせを受けるなかで、ドラァグクイーンやトランスジェンダーが警官に抵抗して小さな暴動を起こしました。そのことはLGBTQコミュニティ(当時はゲイ※1)にも広く知られていました。
 「ストーンウォール・イン」の位置付けについて、ですが、当時、ゲイバーで酒類提供がOKになっていたのは主に白人ゲイ男性の集まる高級なお店で、「ストーンウォール・イン」は、マフィアが経営する、お酒の販売免許を持っていないお店でした。クリストファー・ストリートの外れというグリニッジ・ビレッジの中でも辺鄙な場所にあって、お酒持ち込みで誰でも入れるようにしていたお店だったので、毎日トランスジェンダーやドラァグクイーンが集まってクラブイベント状態で、家がないような人たちも屋根付きで一晩過ごすことができたので、とても賑わって、目立っていたんです。で、たびたび警官がやって来て摘発を行ない、マフィアが「袖の下」をあげて帰ってもらう、ということが繰り返されていた。みんな不満を溜め込んでいました。そして1969年6月27日、私服の警官がカウンターの中にいて、28日になったら「静かにしろ!」と言っていつものように捕物劇が始まったのですが、その日は、用心棒をしていたドラァグ・キングの女性が捕まって護送車に入れられようとした時、周りの人だかりに向かって「あんたたち何黙って見てるんだよ!」と叫びました。そうしたら、もともと警官のやり方に腹を立てていた人たちが、堪忍袋の尾が切れて、小石やなんかを投げはじめ…やがて数人の警官と200人の群衆の戦いになって。警官がお店の中に立てこもって応援を呼んで。それを離れたところで見ていたマタシン協会※2の人がすぐに主要な新聞社に電話して、その日の朝刊には暴動がニュースとして載りました。さらに、世界民主青年連盟やブラックパンサー党といった団体も加勢して、数千人があの通りを埋める状態になって、応援の警官隊をも圧倒し、収束に3日3晩かかるような大暴動になりました。
 この暴動のことは「警察vsゲイ」という構図として全米に報じられ、話題になって、ゲイコミュニティに「もう黙っていられないだろう」という気運が醸成されたわけです。「黙ってちゃダメなんだ」という。

※1 当時はゲイという言葉であらゆる性的マイノリティを総称していました

※2 マタシン協会は最も歴史が古いゲイ団体で、白人・中産階級の男性同性愛者のメンバーが中心でした。1967年、ニューヨークのゲイバーの合法化(同性愛者への酒類提供の非犯罪化)に成功しています。

――そこからゲイ解放戦線などの団体が立ち上がり、本格的なゲイ解放運動のブレイクスルーになったわけですね。
 
 そうです。弾圧されてきた状況で、小さな抵抗はあったけど、みんな我慢してきた。でもストーンウォール暴動をきっかけに、「もう我慢するのをやめよう!」と意識が変わったんです。
 1年後の1970年、ゲイ解放運動の活動家の人たちが集まって、ストーンウォール1周年を記念してイベントをやろうという話になりました。白人男性同性愛者が中心だった穏健派のマタシン協会は、暴力事件を肯定するなんてとんでもない、と反対し、参加しませんでした。しかし、若い人たちは、1965年に公民権運動が激化して黒人の大規模デモと警官隊がぶつかり合ったりしたことも知っていて、「不当な弾圧と闘っていこう」という意識がありました。
 そうして、「私たちはあのクリストファー・ストリートで、自分たちの力で自由を勝ち取ったんだ」という記念として、最初のプライドパレード「Christopher Street Liberation Day 1970」が開催されました。ニューヨークだけでなく、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴでも開催されました。ニューヨークでは道路使用許可が下りず、ゲリラ的なデモになってしまったにもかかわらず、1000人以上が集まり、成功を収めました。
 
――ストーンウォール暴動では誰からともなく「GAY POWER!」という叫び声が上がったことが知られていて、これは当時の公民権運動の抵抗のスローガン「BLACK POWER」をなぞったものだったと思いますが、ゲイ解放運動では「GAY POWER」ではなく「GAY PRIDE」がスローガンになったということを、とまとさんが書いていらしたと思います。
 
 「GAY POWER」も使ってたんです。公民権運動の活動家・マルコムXが「BLACK PRIDE」ということをよく言っていて。「白人の奴らは俺たちのことを蔑んで見るが、ここにいるみんなはダイヤモンドのように黒く輝いてるじゃないか。我々はアフリカの血を誇りに思っている」というスローガンだったんですね。
 しかし、平和活動家でバイセクシュアルでもあったブレンダ・ハワードをはじめ、ストーンウォール1周年記念のパレードを企画していた人たちは、一人ひとりのゲイたちが「GAY POWER」を使うには、あまりにも抑圧されてしまっていて、どうやって誇りを持ち、カムアウトしてよいかもわからなかった、という状況に鑑みて、「私たちは誇りを持たなくては」と考えました。そして、最初のデモの時に「Pride Week」を設け、デモでは「Say it loud, gay is proud.」とチャントしながら行進したんです。ブレンダ・ハワードは「PRIDEの母」と呼ばれています。



――とてもよくわかりました。PRIDEを語るうえで、オープンリー・ゲイとして初めてサンフランシスコ市議となったハーヴェイ・ミルクのことを忘れてはいけないと思うのですが、『ゲイの市長と呼ばれた男』を読むと、当時(1970年代前半)、表に出ることなく政界や財界に働きかけて社会を変えていこうとした「穏健派」の人たちと比べて、ハーヴェイがゲイコミュニティに「みんなでカミングアウトしよう! 通りに飛び出そう!」と呼びかけ、レインボーフラッグを掲げて大規模なパレードを開催し、差別的なビール会社へのボイコット運動を展開したり、同性愛者の教師を追放する州法案に対して反対運動を行なったりという活動が「過激派」と見なされていたことがわかります。しかし、歴史は、ハーヴェイのほうが正しかったことを証明していると思います。堂々とカミングアウトし、権力に屈せず、声を上げるということもPRIDEの重要な側面と言えるでしょうか?
 
 やはりハーヴェイ・ミルクの業績は、公職から同性愛者を閉め出す州法「Prop6」を廃案に持ち込んだことが大きいですが、さらに、サンフランシスコ市の住宅と雇用における同性愛者差別を禁止する同性愛者の権利条例の可決への道筋をつけたことも大きな功績です。そして、なによりもオープンリー・ゲイであったことがとても重要であることは間違いないです。

――70年代、そうしたGAY PRIDEの運動が盛り上がる一方で、これもとまとさんに教えていただくまで知らなかったのですが、実はトランスジェンダーの活動家のシルヴィア・リヴェラが、1973年のニューヨーク・プライドでスピーチした際、聴衆からブーイングを浴びたという、悲しいお話がありました。ストーンウォールの功労者なのに…。
 
 『Stonewall Uprising』というドキュメンタリー映画にも描かれていましたが、ストーンウォール暴動とそこからブレイクしたゲイ解放運動は、マタシン協会の白人の男性同性愛者たちに「乗っ取られた」のです。当時の白人の男性同性愛者たちは「ただ性的指向が同性愛というだけで、それ以外は異性愛者と同じ」という「名誉ヘテロセクシュアル」な人たちが多く、彼らはトランスフォビアもミソジニー(女性蔑視)も強かった。同性愛女性が「ゲイウーマン」ではなく「レズビアン」を自称するようになった背景も、そういうところにあります。

――わかる気がします…。日本のゲイの間でもそういう傾向があると指摘されていて、コミュニティ内の課題の一つだと思います。もう一つ、これもとまとさんに教えていただいて、ショックを受けたのが、シカゴのプライドパレードの最中、黒人のクィアの人々がパレードをジャックして抗議のデモンストレーションを行なった映像でした。たまたまシカゴのこのゲイタウンに行ったばかりだったので、余計にショックで…。

 これは2015年、同性婚をアメリカ全土で認めるという最高裁判決が出た年で、全てのアメリカのプライドはお祭り騒ぎだったんですね。一方でこの年、黒人のトランス女性を中心にトランスジェンダーが36名も殺されていて、史上最悪を記録していました。あまりにもお祭り騒ぎだったから「黒人トランスの命も直視して」「この現実をちゃんと見てよ」と訴えたわけです。

――ドラマ『POSE』にも描かれているように、ひとくちにLGBTQと言っても、白人のゲイの状況と、黒人のトランス女性の状況には雲泥の差があった、実はLGBTQコミュニティ内でもトランスジェンダーや有色人種への差別があったということなんですよね。昨年あたりから、レインボーカラーに人種的多様性とトランスジェンダーのカラーが加わった「プログレス・プライド・フラッグ」が欧米でずいぶん広く用いられるようになりましたが、それは、これまでLGBTQコミュニティ内で蔑ろにされていたトランスジェンダーや有色人種の人々の命や尊厳をもっと尊重しよう!ということですよね?

 そうですね。Black Lives Matterの盛り上がりもありましたし、何よりも2020年の1年は、今まで以上にトランスジェンダーへのヘイトが厳しくなった年だったということがあります。アメリカで昨年、ヘイトクライムで殺されたトランスジェンダーの数は40名を超え、過去最悪になりました。女性が怖がるからトランス女性を排除せよという言説も世界的に強まっています。
 そもそも白人と黒人の活動家では境遇が違いすぎる。白人はトランスジェンダーのことだけ問題にするけど、黒人はそもそも人種差別とか困窮があって、そのうえで女性差別やトランスフォビアと闘わなくてはならないのです。

――インターセクショナリティの問題ですよね。「PRIDE JAPAN」でもLGBTQと様々なイシューとが交差するところをフィーチャーしていきたいと考えています。最後に、日本における「PRIDE」をめぐる課題について。世間のホモフォビアやトランスフォビアを内面化し、なかなかPRIDEを持ちづらい当事者の方も多いということもありますが、おそらく、そもそもLGBTQコミュニティの間でPRIDEとは何かということがきちんと認知されていないのかもしれないと思ったりもするのですが、いかがでしょうか。
 
 日本でプライドパレードが始まって25年。「差別はないよ、オネエタレントがいっぱい出てるし」と言う方もいるけど、メディアに出ているオープンリーの人はまだまだ少ないと思います。世界最大のゲイタウンと言われる二丁目の人たちも、多くはクローゼットだったり。

――でも昨年、足立区議の「LやGばかりになると足立区が滅びる」発言のあと、たくさんの同性カップルや当事者の方たちがTwitterで「#私たちはここにいる」という、まるでパレードのようなムーブメントを展開しました。こんなにオープンに発信できる方がたくさんいるんだ!と感動し、時代の変化を感じました。

 そうですね。一方で、著名人のカミングアウトがまだまだ少ないということは言えると思います。あの人も!この人も!っていうのが少ない。自分が最初にはなりたくない、リスクを取りたくないのかな、と。内在する差別感が大きくて、PRIDEを謳えない、胸を張れない現実がある。生きてると、要所要所でフォビックなことに触れてしまう。ゆるい差別を容認する社会なんだと思います。

――よく日本は「真綿で首を絞めるような」差別だと言われますよね。映画『私はワタシ』で、とまとさんが「日本ではそもそも人権が浸透していないことが問題、話が進まない」とおっしゃっていて、とても印象的でした。そういうこととも関係があるのかな?と思います。

 日本は様々な差別の禁止を謳う世界人権宣言を批准しているにもかかわらず、人権とは何か、という教育がされていないと思うんですね。アムネスティ日本の方から、政府に提言をするときに人権という言葉を使うと話を聞いてくれなくなる、と聞いたことがあって、唖然としました。世界的に見ても、少なくともOECD加盟国のなかで、差別を禁止することを嫌がる政府はないですよね。
 いま、自民党が成立させようとしている「LGBT理解増進法」。差別禁止を謳うことを頑なに拒んでいます。
 トランプ政権が誕生した後のアメリカ各地のプライドパレードでは「Resist(抵抗しよう)」というスローガンが掲げられました。LGBTQを抑圧するトランプ政権はすぐにでも変えようとコミュニティが一丸となった。でも、日本にはそういうことはないですよね。一致団結して「政権交代しよう」ということが言えない。
 
――私たちはもっとそういう海外の運動の「本筋」と言いますか、基本的な考え方や態度に学ぶ必要がありそうですね。では、本当の最後に、企業にお勤めのアライの方たちに向けて、アライとしてPRIDEを支援するためにどういうことができるのか、というところでメッセージをいただければと思います。

 会社のスタッフの方たちのなかには、声をあげることができていない当事者の方がきっといると思います。企業としてアライであることを表明すること、差別しませんよと社内で明文化することなどで、働きやすい、カミングアウトしやすい職場になりますよね。また、商品・サービスを多様な性の人に提供していく意識を持つことも大事です。
 アライであることを表明すると、もしかしたら保守の人から嫌がられる可能性もあると思うのですが、間違いなく、世界は差別をなくそうと言う方向に動いていますので、自信を持ってアライであると表明し、LGBTQ差別のない社会をつくるための一員となっていただければ幸いです。

――どうもありがとうございました!



東京レインボープライドには何十万人もの方々が参加するようになりましたが、一方で、まだまだ私たちはPRIDEの歴史や、本筋の運動のありように学ぶところがありそうです

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